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夕闇が落ちるころ、彼は馬と騎手を無人のタンフォランのトラックに連れ出した。
シービスケットの好きなように走らせた。 シービスケットは飢えたようにトラックを疾走した。
暗闇のなかで馬が勢いよく決勝線を越えると、Sは手を振って制止した。 Sはこの調教を、誰にも知られずにやりおおせたと思っていた。
だがコースのエプロンのどこかから、〈サンフランシスコ・イグザミナー〉のカメラマンが闇にまぎれて写真を撮っていた。 さらに不運なことに、たまたま通りかかったほかの馬主が調教に目を留め、ストップウォッチを取り出した。
シービスケットがたたき出した数字は、そのシーズンを通じ、最も速かった。 記事はスポーツ欄に大々的に掲載された。
またしてもマスコミに足をすくわれたSは、そのもうひとつ上を行くことにした。 ひょんなことから、彼はしつこい記者たちの裏をかく、新たな方法を編承出していた。
4月初めのある午後、SとHは、シービスケットと同じくハードタックの子どもで、一時期F厩舎の同じ馬房で暮らしていたGに出くわした。 おぼつかない足取りでタンフォランの売却競馬に出走していたのだ。
Gは一ドル札並承に人手を転々とし、その時はハリウッドの脚本家が馬主だった。 Hはハードタックの息子たちに、強烈な思い入れを抱くようになっていた。
「ハードタックを安く見るな」が口癖で、市場に出たハードタックの仔は一頭残らず買い上げるという目標をほぼ達成していた。 彼はGを引き取りたいと考えた。
Sも同意し、ふたりはその馬を譲り受けた。 Gはシービスケットの隣に住まわされた。
2週間もしないうちに、SはPを乗せたGをウィナーズサークルに返り咲かせた。 4千ドルで譲渡されたGに、Sがなんらかの将来性を見いだしていた可能性は否めない。
だが調教師の関心は、この馬のスピードよりも、むしろその外見にあったのではないか。 Gとシービスケットは、仔馬のころと同様ほとんど見分けがつかず、区別できるのは、Sと彼の下にいる厩務員たちだけだった。
GはSにとって、対マスコミ戦略の新兵器となった。 Gを買った直後のある朝、Sはこの馬の名前を記録帳に書きこんだあとで、代わりにシービスケットを調教に送り出した。
Gと記載された馬には誰ひとりハナもひっかけようとせず、おかげでシービスケットは6ハロンを1分11秒6という信じがたいスピードで、のびのびと走ることができた。 その調教タイムをどこかから聞きつけた記者たちは、一様に首をひねった。
鞍にロケットをつけ、両サイドに翼をつけたとしても、Gがそんなタイムを出せるはずはなかったからだ。 だがSがシービスケットをあれだけの馬に仕立てあげたことを考えると、記者たちは確信がもてなくなった。
誰かが、走ったのは実のところシービスケットだったんじゃないかといいだした。 Sはいつものようにだんまりを決めこんだ。
「先日の朝、仲間がシービスケットとまちがえた馬がほんとうにGだったとするならば、記者は以下の警告を発したい」とJ名義で〈サンフランシスコ・クロニクル〉に寄稿していた競馬記者は書いた。 「Gに気をつけろ」Sは存分にシービスケットを調教させられるようになった。
ある朝は午前中の調教時間に、シービスケットの名でGをギャロップさせ、それからホンモノのシービスケットを、夜になってそっと調教に連れ出した。 またある朝は撹乱のために、シービスケットを本来の名前で走らせた。
記者たちはまんまと術中にはまり、Sをスパイする者も現れた。 たとえばJは競馬場の料理人宅の屋根裏の窓に登り、夜間に調教を受けるシービスケットの姿をキャッチしようとした。
Sは厩舎でも、この擬装を解かなかった。 報道陣にシービスケットを撮影させてほしいと頼まれると、彼は新入り厩務員のH・アリスンー驚くほど瞳の色が薄かったことからこの呼び名がついたIに「シービスケットを出してくれ」と声をかけた.するとHは、計略をよりもっともらしく見せかけるために、時おりシービスケットの馬房に入れられていたGを連れてくる。
たぶらかされた見物人は、一様に背中に乗せてほしいとせがみ、Sもめずらしく快諾した。 本来なら、このもてなしのよさに疑問を抱いてしかるべきだった記者たちはしかし、あのシービスケットに乗ったぞと鼻高々になり、Gという駄馬の写真を、うまうまと無数の雑誌や新聞に掲載してしまった。
Hまでもが、Sの犠牲になった。 シービスケットの肖像を描くために、Hに送りこまれたある不運な画家は、自分がキャンバスに写し取り、永遠の生命を与えた馬が、実際にはGであることに最後まで気づかなかったのだ。
厩務員たちも、このたくらみに加担した。 彼らは、Gをシービスケットだと信じこませるよりも、シービスケットがシービスケットではないと信じこませるほうが、より簡単なことに気づいた。
具合の悪そうな脚と、牧牛馬を思わせる外見のおかげで、人々はやすやすとだまされた。 一度、調教終了後に、Hと調教騎手のKがシービスケットにブラシをかけていると、ひとりの男がじっと馬を見つめはじめた。
男はつかっかと近寄り、その正体に気づかないままじろじろ見回すと、ひざに目を留めて眉をひそめた。 「こんなふうにどうしようもなくなった馬は、いったいどうなるんだい?」男は尋ねた。
「そうですね」Hが答えた。 「たいていは、こいつを買いたいといってきた人に売り払います」「この手の馬はいくらぐらいする?」「5、6百ドルってとこですか」とH。
「それぐらいの価値はあるでしょう」その時点でシービスケットには、十万ドルという、アメリカの競走馬としては最高額の保険がかけられていた。 安値に気を惹かれた男は、馬の反対側に回った。
端綱のプレートには、シービスケットの名が刻シービスケットとの再会に、サンフランシスコは狂喜した。 「シービスケット本日出走!」の全段抜き大見出しに応え、北カリフォルニア史上最大の観衆がタンフォラン競馬場に詰めかけ、シービスケットがインディアンブルーム、スペシャルエージェントと再戦するマーチバンクパンデ戦を観戦した。
今回もPはあざやかな騎乗を見せた。 Sから、先行するスペシャルエージェントの後ろにつけるよう指示されたPは、レース開始早々に、スペシャルエージェントが行く手を阻まれ、前に出られなくなっているのを見て取った。
そこでPはみずから先頭に飛び出し、レースの支配権を握ると、シービスケットのスピードをゆるめた。 どのタイムも、コースレコードを大きく下回っている。
観客は息をのんだ。 だが馬群が追いついてきたとたん、シービスケットはまた前に飛び出し、3馬身差で圧勝した。
興奮した記者陣が、Mでもシービスケットには勝てないんじゃないかと話しているところに、Hが入ってきた。 全員が顔を上げた。
「おい!」階段を駆け上ってきたせいで、Hはぜいぜい息を切らしていた。 「2着と3着はどの馬だった?」まれていた。
「確かに」と男は尊大な口調でいった。 「シービスケットの端綱がおまけにつけば、それぐらいの値段にはなるだろうな」数週間後のベイメドウズ競馬場で、Sの不安が現実になった。
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